先の記事で基本の大切さを書きましたし、以前の記事でも王道をゆく人間が強いと述べました。しかしながら、この王道を重視しすぎると常識に囚われすぎる事が有り、場合によっては競技力の停滞を生むことがあります。そして、この常識というものは競技を長く続けるほど固まってしまい、抜け出せなくなってしまう事が有ります。
 ですが、その常識が覆るときに、その競技において全体のレベルが跳ね上がる傾向が有ります。

 テニスでロジャーフェデラーという選手が居ます。この人は、数々の偉業を成し遂げたまだ現役でありながら伝説的な存在としてたたえられる選手です。しかし、私がこの人を尊敬するのはその実績のみならず、テニスの常識を変えた点にあると思っています。

 最初彼が注目されたとき、その才能の豊かさに様々な人が驚嘆しました。それと同時に、あまりにリスキーなプレイスタイルに警鐘を鳴らす人が多くいました。確かに普通の人は考えもしないような素晴らしいプレイもするが、いかんせんミスが多すぎると。「彼は、もっと辛抱することを覚えないと、世界のトップへはいけないだろう」と言う人もいたと記憶しています。
 しかし、彼は全ての人の予想どころか、これまでのテニスの常識すら覆しました。今までリスキーと言われたプレイを、その質を落とすことなくただ己の技術を高めることで成立させてしまったのです。今まで皆が、「人はその領域ではプレイできない」と思っていた常識を、覆したのですね。

 ここで私が言いたいのは、王道に囚われすぎると常識もまた強くなり、固定観念にとらわれやすくなるという事。そして、ロジャーフェデラーが成し遂げたことは、決して王道から全く外れた道ではなかったという事です。
 確かに、これまで王道とされていたプレイとは違うプレイを彼はしました。しかし、そのプレイはその王道の先にあるプレイであり、その実現方法は、技術を極限まで高める(要は単純にテニスが上手くなる)という、まさにこれぞ王道というような手法であったという事です。
 ただそれが、他の人からすれば「常軌を逸した」レベルで高かったというだけです。

 そうして彼の無敵の時代が始まります。何しろこれま無理だと思ってた領域でプレイしているのですから、勝てる訳が有りません。
年間で80戦前後という多くの試合をこなすテニスのツアーにおいて勝率が95%前後という恐ろしい数字を達成し、グランドスラム4大会を1年間で3回優勝、1回準優勝という結果を2年連続で残します。

 これと似たようなことがフットバッグでもあったはずです。ヴァシェク・クロウダは様々な常識を塗り替え、フットバッグのレベルを押し上げました。しかし、ヴァシェク・クロウダとロジャーフェデラーで違うのは、後に続いた人が居たかどうかでしょう。

 ロジャーフェデラーが台頭してから、テニスの常識が変わり、これまでのテニスをしていては彼に打ち勝つことがきわめて困難になりました。その為、彼に追いつこうと様々な選手が改革に乗り出します。そして、その努力が実を結び、ロジャーフェデラーに追いつく選手が少しずつ表れ始めます。
 結果として、男子テニス界は劇的に変化しました。これまで、ある程度の弱点があっても、人に負けない長所があればよいとされる風潮がありました。また、リスクを減らしながら、ベースライン後方で力強いストロークを安定して放ち続けることが、強い選手には欠かせないと思われていました。
 しかし、常識が覆ったことによって、まず弱点を持つことがきわめて不利になりました。弱点となる部分で攻撃が出来ない為どうしても攻めに遅れる場面が出てくる上、相手の早い攻めによりあっという間に自分の弱点を突かれ窮地に陥ってしまうからです。
なので、プレイスタイルとしてオールラウンドである事(何でもできること)は前提となり、そこに長所をプラスしなければいけなくなりました。
 また、どんな選手でも隙あらばすかさず攻めるどころか、隙が出来る前に攻める能力が必要とされるようになりました。つまり、隙をうかがうという手間は省略した上で、速い攻めを安定させなければならない状況が生まれます。こうして男子テニス界は恐ろしいスピードで進化し、そしてその進化は続いています。
 現在はやや戦術の変化が見られ、オールラウンドで攻めの速さも備えながら、鉄壁の守備力を主体とする選手が1位と2位についています。しかし、最新のグランドスラムでは、ロジャーフェデラーが高速な攻めと圧倒的な技術とそれを元にした多彩な戦術で、再度優勝にたどり着いて見せました。
 おそらく、これからも様々な変化が起こっていくでしょう。
 
 しかし、フットバッグ界では、誰かヴァシェクに続いたでしょうか。私は、そう思える人をいまだ見ていません。単にヴァシェク一人がフットバッグを変え、そして彼の実力が落ちたらフットバッグ界自体のレベルが落ち、ずっと停滞しているように見えます。ミラン・ベンダ、ホンザ・ウェバー、デビット・クレバンス辺りはまだその気配を感じることが出来ましたが、以降の選手ではまだ現れていないと私は考えています。
 現在は恐らく一番評価が高いのはエヴァン・ゲイツマンでしょうが、確かに非常に高いレベルの技術を持っていますけど、私にはどうしても守りに入った演技に見えてしまいます。そして、このような守りに入ったスタイルが優勝してしまうので、トップレベルの選手が攻めない傾向が続いているのではないかと思っています。
 おそらく、この傾向はしばらく続くでしょう。未踏の領域どころか、見えている領域にすら手を伸ばさないのですから。世界のトップに立つような選手あるいは世界大会において、チャレンジャーであることが求められるかどうかというのはその競技にとって非常に重要なことです。これは、ジャッジ形式にも大きく絡む問題なので、これからフットバッグ界が先に進むためには大きな改革が必要無気がしています。

 余談ですが、似たような状況に陥り、システムを変えることによりある程度状況を打破したケースもあります。一番有名なところでは、フィギュアスケートが挙げられるでしょう。
 以前フィギュアスケートにおいては、演技の芸術性に大きなウエイトが置かれており、特に女子ではロシアやアメリカ等の欧米選手の独擅場と言っても過言ではありませんでした。しかし、芸術性というものは極端に言えば選手の容姿やスタイル等にすら左右されてしまう、非常にあいまいなものです。
 また、最高点が6.0に設定されており結果的に相対評価となったため、余計に審判員の印象に左右されてしまう事にもなるケースが多々ありました。
 その為技術が軽視され、技術が高い人間がミスなく演技をしても、技術は低いが芸術性が高い(とされている)選手に勝てないという状況が生まれていました。当時日本女子フィギュアスケートの第一人者であった伊藤みどりの、「5種類のトリプルジャンプを跳んでも2種類のトリプルジャンプしか飛ばない選手に負けるのならどうすればよいのか」というセリフは、その状況を象徴しているでしょう。
しかし、そういったジャッジに曖昧な点が多く存在したためか、審判員の八百長問題(ジャッジ不正問題)が勃発します。そして、この問題を契機にフィギュアスケート界が改革に大きく舵を切ります。
 これまで軽視されがちだった技術に重きを置き、さらに評価方法を厳密に定めました。そして、高い技術に対してより大きな評価を行うように改訂します。その上で採点方式を絶対評価による積み上げ式とし、点数に上限を設定しない事としました。勿論この改革が全て上手く行ったわけではないのですが、少なくとも技術面だけを取れば現在の競技レベルに大きく表れています。
 女子フィギュアスケートにおいて、かつてはトリプルジャンプをろくに飛ばなかった選手が優勝していましたが、現在ではアクセルジャンプを除くすべてのトリプルジャンプを跳ぶことは必須と言っても良いでしょう。
また、以前は殆どチャレンジする人が居なかったトリプル>トリプルのコンビネーションも、現在ではほぼすべての選手がチャレンジしています。
 この変化は男子にも当然起こっており、10年程前には4回転ジャンプにチャレンジすらしない選手がオリンピックで金を取っていたような状況でしたが、今は4回転に挑むのは必要最低限の要素となっています。また、現在の進化のスピードが上がっているのは、現在の王者である羽生選手が常にチャレンジャーとして、より高いレベルに挑み続けているのも大きく影響しているでしょう。
 「人は自分の技術を維持しようと考えた時から退化していく」とはある医療マンガのセリフですが、これはスポーツにおいてもあてはまると思っています。
 もっともフィギュアスケートの新ジャッジングシステムでも自国の選手に対して高い点を付ける等の問題は残っていると指摘されており、これはシステムの問題というよりも演技の完成度を競う競技では常にある問題だと思います。
 フットバッグもフリースタイルは演技により競う種目なので、公平な採点というのは極めて難しいとは思いますが、少なくとも高い技術が高い評価を得られる、言い換えれば高い技術を要する演技をしなければ勝てないルールを模索する必要があると思います。

 話が結構脱線したので戻しますが、人は競技を続ければ続けるほど多くの常識に無意識に囚われることになります。どんなに高い目標を立てても、それが結局常識に囚われたさして高くないものかもしれない、という意識は常に持ち続けるべきでしょう。それは何もトップレベルにおいての話ではなく、それぞれの選手がそれぞれのレベルで抱える問題だからです。
 そして、自分が無理だと思っている領域は、そして周囲が無理だと感じている領域は、本当に無理なのか常に考察を続けるべきです。それには先にも述べたとおりジャッジ等の競技のシステムにも絡むので個人では難しい面もありますが、競技スポーツにおいては正に全てを捧げる価値のあるものだと思います。
 そして、それがその競技を「極める」という事なのだと、私は思います。