よくスポーツで成功した人の特集やドキュメンタリーなどで、テンプレート化されているような筋書きを目にします。何かのきっかけを機に決意を固め、強い意志で努力を続け、その努力が報われる形で成功するというような筋書きです。私はこれがあまり好きではありません(というか嫌いに近い)。なぜなら、それは人の成長の仕方にマッチしていないと思うからです。
 そもそも、何かを決意した通りにその物事を一度も折れずに成し遂げられる人が一体どれだけいるのでしょうか。そういう人は皆無だとは言いませんが、そんな強い決意を最初に持てる人はほんの一握りだと私は思っています。
 私は、何か行動を起こす際に必要なのは決意であるという事は特に否定しません。ですが、最初の決意など本人がどんなに強く決意したと思っていても、そのほとんどにおいて大した決意にはならないと思っています。
 人の精神というものが実体が無いせいか、心持ち次第でどうとでもできると考えている人が多すぎるように思います。しかし、自らの身体を鍛えていない人のパフォーマンスが低いように、心もまた鍛えなければ低いパフォーマンスしか持たないものなのです。何か行動を起こそうとする決意は、いわばただ一歩を踏み出した程度に過ぎないという事ですね。

 たとえばこれまで特に何かに熱中して取り組んだことが無い人が、一念発起し陸上競技の100mで日本一になろうと決意したとします。しかし、その様な人が行動してすぐに10秒台で走れるようにならないように、その決意もまた自らのパフォーマンスに見合ったレベルでしか持てないものなのです。そして、目標達成のために必要な練習に取り組むと、その厳しさにすぐに精神的に折れてしまう事になるでしょう。
 ここで、その人が意志力の弱い人だとか、怠惰であるとか言うのは筋違いです。というか、むしろ折れてしまう事が当たり前なんです。大事なのは、そうやって得た失敗体験をもとに、次にチャレンジできるかどうかです。
 現実のあまりの厳しさに折れてしまったことを反省し、自らの精神的な甘さや弱さを認め、決意を新たにする。その時に、その前の決意よりも少しだけ強い決意を持つ事が出来ます。
 ですが、結局は練習を続けていけば、また精神的に折れたり妥協したりすることが繰り返されると思います。その時に、自分の弱さに嫌気がさしたり、責めてしまったりすることもあるでしょう。でも、大半の人はそういうものなんです。大切なのはそこで諦めて投げ出してしまわない事、何度でも決意を新たにすることです。そうやって繰り返すことで心が鍛えられ、次第に強い意志を持てるようになっていくんです。
 特に競技スポーツにおいて高いレベルを目指すとなると、身体的に非常な大きな負荷がかかります。そしてこの負荷は、そのまま精神的な負荷になります。意志力が強ければ苦しい練習にも耐えられるはずだと言う人がいますが、確かにそれはその通りではあるけれど実際にその苦しさを体験したことが有るのか?と思います。
 本当に苦しい練習をこなす時は、頑張れば何とかなるというような生ぬるい物ではありません。もういっそ死んだ方が楽じゃないかと思う程に厳しい練習などいくらでもあります。
 そして、その様な練習はどんなに精神的な強さを持っていようが、高い負荷に対する耐性を身に着けなければ耐えられません。そういった耐性は、何度も繰り返し負荷のかかる練習を段階的にこなすことで、身体と精神を両方鍛えることで徐々に身ついていくものなのです。

 人の心を強くするには、鍛えるしかありません。そして、それはメンタルトレーニングに取り組むという事でもありません。メンタルトレーニングを否定するわけではありませんが、あれは日本や世界のトップを狙うといった領域に突入して初めて意味を持つ類です。
 因みに私が大学時代の教官(オリンピックのメダリストレベルの人のメンタルトレーニングを指導するような人)は、「君たちレベルの競技力なら、メンタルトレーニングをする意味はほとんどない。普通に練習したほうが余程ましだよ」と言ってましたね。なお、私が居た筑波大学の体育専門学群は、各種競技において全国出場レベルがザラで、上位は全日本代表レベルであった事を付け加えておきます。
 メンタルトレーニングは、かなりの競技力や精神力の下地が無ければ、ほぼ無意味になるという事のようです。つまり、メンタルトレーニングは精神力を鍛える手法としては非常に高度なものであり、まだまだ未熟な精神を鍛える方法としては不向きなのです。
 基礎的な精神力を鍛える場は殆どの場合練習の場にあり、それは技術的な問題や体力的な問題とも密接に関係しているという事です(本当はそれだけじゃないですけど)。
 また、これはまた別の側面の話になりますが、技術的あるいは肉体的に不安な面や未熟な面がある場合、どんなに精神力を鍛えてもさして意味を持ちません。
 例を上げますけど、pdx whirlが技術的に未熟な人は、どんなに精神を鍛えてもpdx whirlを行う時の不安は消せませんし、持久力に不安のある人が精神を鍛えようが長時間の練習に挑むときには結局不安を消せないのです。また、逆に技術的な面や身体的な面での未熟さや不安な点を解消できれば、それが自信となり精神的な成長が見込めるでしょう。加えて、そもそも高い負荷の練習を継続するということ自体が、精神的な鍛練にもつながります。そもそも、精神的な成長が無ければ高負荷の練習やトレーニング自体を継続できないからです。
 一生懸命頑張るとか、気力勝負等というのは1回だけの苦しい練習をこなすだけなら何とかなるかもしれませんが、言ってしまえばそれだけです。厳しい負荷を日常的にこなす、そしてその負荷を上げ続けるというのは、やはり精神的な成長と苦しさに対する耐性の向上が無いと継続できないという事です。基礎的な精神力を鍛える場が練習の場にあるというのはこういう事です。

 高いレベルを目指して練習やトレーニングを続けていけば、常に妥協しようとすることや折れそうになることと向き合い続けることになります。それだけの高い負荷が、精神的・技術的・肉体的にかかるからです。その中で勿論毎回踏ん張れるわけもなく、時に妥協したり、場合によっては折れてしまう事もあるでしょう。
 大切なのはそういった自分の弱さを認め向き合う事です。この時に、虚勢を張ったり、ごまかしたり、諦めたりしてはいけません。むしろ、自分の心を鍛えるチャンスだと捉えましょう。
 そこまで前向きにとらえられないときは、せめて惰性でも構わないので練習を途切れさせないようにしましょう。諦めと惰性というものは、普通に捉えれば戒めるべき態度ではあるのでしょうが、時に必要なケースもあるのです。
 その時の練習は、折れた時の練習を続けてはいけません。結局又折れるだけで、そうなると持ち直すのが最初に折れた時より難しくなるからです。惰性で練習を続けるときは、これなら確実にこなせるというレベルまで練習のレベルを落としましょう。そうして成功体験を積み重ねていると、次第に心も復調してきます。準備が整ったと思ったら、改めて以前折れた練習にチャレンジしてみましょう。
 もしこのときに惰性すら続けられなければ、かなりの停滞を余儀なくされます。ちょっと休んでリフレッシュしてからまた頑張ろうというのは、はっきり言って悪手以外の何物でもありません。なぜならば、次のチャレンジにつながるものが何もないからです。むしろ、そのリフレッシュの間に自らのパフォーマンスが低下していくので、その折れた時点のパフォーマンスに戻すだけでもそれなりの労力が要りますし、苦境において粘ることを完全に諦めているので、次の苦境にプラスになる要素が殆どありません。
 そしていざ再チャレンジで折れてしまったときに、結局その人はどのように行動するのでしょうか。恐らく、またチャレンジするどころか惰性の練習すらできずに、再度後退してしまう可能性が高いです。あとはひたすらループするだけで、その歩みは遅々として進まなくなるでしょう。
 惰性でも練習を途切れさせないということは、言い換えればその場に何とか踏みとどまって粘るという事です。むろん何度も果敢にチャレンジできることが最善ですが、心がまだ十分に鍛えられていない状況において、そこまで強く前向きな心を持てる人は非常に少ないでしょう。ならば、少なくともその場から極力引かないようにし、たとえ引くとしても最小限に留めるのです。そして、戦略を練り直し、あるいは自分の態勢を立て直すために、ひたすら粘りましょう。その姿勢を保つことができれば、心は徐々に鍛えられ、次のチャレンジに耐えるだけの精神が身についていくはずです。そしてそのチャレンジを乗り越えられれば、大きな自信と心の強さを得ることができるでしょう。

 日々の練習は、自らの身体や技術を鍛えるだけでなく、心もまた鍛えるものであるという意識を持ち続けましょう。そしてその事が意識できるようになれば、ある程度までは心が鍛えられるようになるでしょう。
 但し、これはあくまで初期段階からせいぜい中級者、あるいは上級者の入り口くらいまでです。そこから先に進むためにはその意識だけでは不足で、生きる姿勢そのものが問われるようになるのですが、その説明は次回にて。