目の前の事だけに集中するという技術は、鍛えれば試合当日に自分の実力を発揮する能力としても機能します。
 試合の時に緊張から力を発揮できないという事態は往々にしてあると思いますが、大抵の場合過去や未来に囚われることから発生します。もっとこんな練習やあんなトレーニングをしておけばよかったとかいった事は過去の事を気にして発生する事ですし、うまく演技できるかとかミスしないだろうかといった事は未来を気にするあまり起こる懸念です。
 スポーツは数か月、あるいは数年かけて積み上げたものがわずかな時間で問われるものです。フットバッグにおいては、それらがわずか2分の演技に凝縮されるわけです。これに何も感じない人は恐らくいないと思います。よく練習を沢山積み重ねれば緊張に打ち勝てるという人が居ますが、むしろ逆です。
 積み重ねた練習や時間が多ければ多いほど、またその試合にかける気持ちが大きいほどより大きな恐怖を味わうはずです。もっとも、それらを克服するための技術もまた練習で培うものではありますので全くの間違いではありませんが(むしろ一部はこの上なく正しいです)。
 どんなに万全の準備をしたと思っても完璧という事は有りえませんし、望む結果を得られるかどうかも分からないというのがその理由です。

 またスポーツの場において、最後はどれだけ勝とうという意思が強いかどうかで勝敗が決まる、という人が割と居ますが私はこれにも同意できません。むしろ、勝ちたい、負けたくないという意思が強すぎると、勝つために必要な決断が出来ないという場面はいくらでもあります。
 負けるのが怖くてリスクを負って攻める事が出来ない(それが最善にもかかわらずです)というシーンは、テニスで何度も目にしましたし経験しました。
 私は、未来にも過去にもとらわれず、唯今現在の状況を冷静に判断し、必要な行為をなせるかが大切だと私は思っています。いわゆる平常心というやつですね。
 そしてその為には、自分の勝敗すら投げ出せる人が、本当の意味で強い人間だと思っています。

 私がとても好きな喩で、「地面に置いた1m幅の板は誰でも平気で落ちずに歩けるが、(城の)天守閣の屋根と屋根に渡した1m幅の板を渡れる人間はほとんどいない」というものが有ります。これは、平常心を失った人間は全く自分の力を発揮できないという事を指し示している非常によくできた喩だと思います。

 こういった地平に立つために、ただ目の前の事に集中するという鍛錬を普段から行う必要があると考えています。勿論それだけでは十分ではなく他にもいろいろな要素が必要ですが、この鍛錬が非常に効果がある練習の一つだと実感しているからです。
 これは私がテニスの大会に出場した時に試して実感したことでもあります。とにかく今必要なことを考え、判断し、実行する。勿論試合ですから、どうしても勝ちたいという気持ちや、リスクを負う怖さ等はありました。
 これに対処するにはそれぞれの思考の癖も絡むので一概には言えませんが、私は「もし実行した結果がだめだったら、きれいに負ければよい」と言い聞かせながら試合しました。「結果は後からついてくる」と考えるだけでは、まだ勝ちに未練が残るように感じたからです。
 そもそも、自分が最善と判断して実行した結果がだめだったのなら、それ以上の行動は出来ないのですから、どうあがいても負けるしかないわけです。ならば、そういった未練から自由になるために、いっそ自分の勝ち負けすら投げ出してみよう(但し勝つという意思はぶれずに持ちながら)と思ったわけです。矛盾しているように感じるでしょうが、これについては次回の記事で書きます。
 これは私自身が考え付いたものではなく、実在する桜井章一という麻雀打ちの言葉で、「格好良く勝とうなんてまだ早いよ。まずは格好良く負けることからだ。」という言葉を参考にしています。

 勝ち負けにこだわるというのはある程度は必要なことです。ですが、あまりに執着しすぎると自らを縛る枷となります。ただ今の状況にのみ集中し、自分がなすべきことに全精力を傾けられたとき、人は最大のパフォーマンスを発揮できると私は考えています。
 言うは易し行うは難しですが、その事は日ごろから心がけていないといざという場面で動けません。こういった心理的な働きは、結局は日常の練習で積み重ねたことしか出てこないのです。